プロフィール

終わりなき “自分探し” の旅

 〜“自分探し”の経験者として伝えたいこと〜

 

はじめまして、魚住です。

ご縁をいただきまして、ありがとうございます。

このお手紙では、なぜ私が、理学療法士でありながら、理学療法士という職業の枠を超えて、

カラダの感覚・感性を目覚めさせる活動をしているのか、という物語を書かせていただきます。

 

もし、今の人生に生き辛さを感じていたり、自分の可能性や能力を開きたい、

あるいはちょっとしたことでも緊張しやすかったり、疲れやすかったり、不安や恐れの感情に支配されやすい、ということに悩んでいらっしゃる場合は参考になる部分があるかと思いますので、ぜひ読んで頂けますと嬉しいです。


私は、子どもの頃から、自覚的にも変わった子でした。

物心ついた時から、漠然とではありますが、
自分と他者は “何か” が違う、ということを感じていました。

生きながらに私自身が感じていたのは、
生きていることへの違和感と、自分自身の存在価値が見出せないことに対しての生き苦しさです。

 


なぜ、自分は生きているのだろう?

何のために生まれてきたのだろう?


生きていることが不自然で、存在していることに違和感を感じながら
孤独感と、絶望感に苛まれ、常にイライラと不安を抱えながら生きてきました。

その状態を例えるなら

自分自身が望んでもいないのに、神様の采配により「はい、あなたは今からこの世界で生きなさい!」と、
理不尽にもこれまでの日常世界から、すべてが異なる異世界に放り込まれてしまった状態。

のんびりと自然豊かな田舎暮らしをしていたのに、急に大都会で暮らさなければいけなくなったかのような状態。

そういったイメージでしょうか。

具体的な事例としての出来事や経験があったから、生きていることに違和感を感じたとか

存在していることに違和感を感じていたとか、そういったことではなく

自分自身が望んでもいないのに勝手にこの世界に降ろされて、そこで生きる目的も存在価値も見出すことができず
自分自身を含めた全てのことを受け入れることができない状態で生きてきた
と言えます。

そんな状態で生きてきたので、どこにも自分の居場所を見出すことができず、本当の意味で、心安らげる場所もなければ、時間もありませんでした。

自分自身さえも信じることができず

周りは全て敵に見えて、自分に対して何かしらの危害を加えられるのではないか、という不安と恐怖を常に感じながら

常に周囲を警戒して、目立たないように自分自身を抑圧しながら、人との関わりを避けるように、身を縮めて生きてきたと言えます。


その持って行き場のない感情の矛先は、
自分自身を責めたり、傷つけたりという自虐か
他者に対して攻撃的になったり、排他的になったり、という他虐の道を選択しながら生きてきました。


生きることの辛さや苦しみから解放されたい、という強い想いや

自分の存在意義や、存在価値を見出すために
どうしたら、その辛さや苦しみから解放されるのかを探求し続けるとともに自分探しの人生だったと言えます。

 

夢や希望を持てない人生

普通は、子どもの頃、
将来〇〇になりたい、とか
〇〇をやりたい、とか

何かに憧れたり、未来に対して明るい希望や夢を抱きながら生きているのに

私自身はそういったものは一切なく

ただ、自分自身を受け入れることができず、人生に対しての絶望感に苛まれながら生きていたと言えます。

 

やりたいことがなく

なりたいものもなく

熱くなれるものもなく

憧れるものもない。

 

一体何のために生きているのだろう?

自分は何者なんだろう?

という想いばかりが強くなって、どんどん膨れ上がっていきました。

そういった想いが膨れ上がっていくと同時に
自分との関係性は冷めた関係性になっていきます。

 

自分という存在を理解することができない。

自分自身を受け入れることができない。

 

自分以外の何者かになりたいとか

生まれ変わりたいとか

自分という存在を変えたい、という想いを抱くのではなく

今すぐに消えたい。

ここからいなくなってしまいたい、という想いの方が強かったのです。

 

自分という存在を拒絶し、自分を許せない。

 

特に、これといった具体的な理由や、明確な理由があるわけでもなく

ただ、自分という存在を理解できないことや受け入れることができないことが生きることに対しての苦しみになっていたのです。

 

自分探しの旅

生きていることへの違和感や、周りの他者との感覚の違いは、学校という集団生活の中に身を置かれたことで、さらに増していくことになります。

物心ついた時から、私は誰かから何か言われることに苦痛を感じていました。

周りの人から何かを言われても、それを受け入れることができない。

 

自分自身に対して排他的な関係性だったのですが、そういった自分との関係性が、他者との関係性においても同じように排他的な関係性になっていたのです。

自分との関係性は一向に良くならない。

むしろ、どんどん関係性が悪くなっていく。

 

学校という集団生活は、私にとっては苦痛でしかありませんでした。

自らの意志に反して、誰かから言われたことをやらなければいけない。

 

なぜ、そんなことをやらなければいけないのか。

なぜ、周りと合わせなければいけないのか。

なぜ、はみ出してはいけないのか。

理不尽さばかりを感じながら生きていました。

 

まるでロボットかのように、言われたことをやる。

はみ出すことは許されず、周りと同じ状態を目指す同調圧力。

 

自分は他者とは違う

自分は自分

 

自分という存在を理解できず、受け入れることができない反面、
自分と他者は全く違う、人と同じは嫌、という想いが強くなり、自分という存在を強く意識するようになっていきました。

周りと同じ人間にはなりたくない。

人と同じことをやりたくない。

 

どんどん、自分という存在への意識が高まっていく反面、理解できない、受け入れられない自分に苦しみが増していきます。

この苦しみから逃れるためにはどうしたら良いのか?

自分の居場所はどこにもなく

心落ち着ける時間もなく、孤独感に苛まれて生きている。

 

自分ってなんだろう?

人生ってなんだろう?

生きるってなんだろう?

 

誰にも、その答えを教えてもらえるわけでもなく

どこかに、自分の求めている答えがあるわけでもなく

 

自分という存在を放棄して、この世から消えてしまいたい

生きることを放棄したい

人生を放棄したい

そういった想いしかなく、でもそれを現実的にできるわけでもなく、絶望感と、諦めの中で生きていました。


自分という存在を、強烈に意識するようになってきたことで、私自身の生きる原動力は自分とは何か、を探究することになったのです。

 

カラダを通して、世界を知る

物心ついた時から、極度の人見知りでした。

人と関わることを避け、周りを観察しながら生きてきた人生とも言えます。

他者を敵対視していましたし、信頼できる人もおらず、人と関わることが怖かったし、面倒くさいと感じていたのです。

人と関わらず、一人でいることを好んで生きてきたのです。

 

私自身のこれまでの人生を振り返ってみると、様々なスポーツ経験してきた人生だったと言えます。

小さい時から、親の勧めがキッカケで、様々なスポーツをやり始めました。

 

最初はスイミングに通い(選手コース手前で辞める)、小学校では少年野球、中学校では陸上部に入り、高校ではバスケ部に入りました。

高校の途中からは家族旅行で行ったカナダで、スノーボードにはまり、プロを目指そうと理学療法士の資格を取得してからも夏は働き、冬は雪山にこもる、という生活を何年も続けていました。

しかしながら、プロへの道は結局は挫折し、夢は叶うことなく諦めました。

 

スポーツをやっている最中は、カラダを動かします。

カラダを動かしている最中は、何か嫌なことを考えたり、ネガティブなことを考えたり、ということがなく

カラダに意識が向いていて、唯一自分が何かに囚われずに生きていることを感じられたのです。

頭に意識が偏って、雑念や思考が頭の中でグルグルと回り続けることなく、頭から意識が離れてカラダに意識が向けられるのです。 

 

カラダに意識が向くことで

自分という存在を感じ、自分を生きている、という感覚を実感することができたのです。

 

そういった経験から、私自身の興味関心は自分自身のカラダを通して、自分自身の可能性を開くという方向性に向かいます。

 

どうすれば、思考や感情に支配されずに、生きられるのか?

どうすれば、カラダが解放されて、より自由を感じられるのか?

どうすれば、効率的なカラダ遣いができるのか?

どうすれば、心地良い自分で居続けることができるのか?

 

その答えを知りたくて、自分自身が体現したくて、武術や武道に、自分の求めている答えがあるのではないかと思い、自分のカラダで探究を始めたのです。

 

人とは極力関わりたくないという想いから、人と関わることは避け、自分自身のカラダと対話しながら、自分のカラダを解放し、自由を得るために多くの時間と労力を費やしてきたのです。

自分自身のカラダと向き合うことで、あらゆる悩みや苦しみから逃れていたとも言えるでしょう。

 

自分の力で、他者を変えることもできない

自分の力で、社会を変えることもできない

自分の力で、自分以外の世の中を変えることができない

 

変えられるものといえば、自分自身のカラダだけだったのです。

カラダと向き合っていく中で、様々な気づきがあり、その気づきからどのようにすればカラダが自由になるのか?

そうやって、自分自身のカラダに細かく意識を向け続けていると、何かしらの気づきや答えが見つかります。

いろいろと試行錯誤していく中で、自分自身のカラダに変化を感じられるのです。

 

うまくいかない時もあるけど、道が開ける時もある。

自分自身のカラダに良い変化を感じられたときに、大きな喜びを感じたのです。 

 

なぜなら、変化を起こすことができた、という実感が伴うからです。

自分自身が向き合った時間、労力が、何かしらの変化や結果として現れる。

そのことを感じて、ますます自分自身と向き合うことに没頭していきました。

 

自分自身が生きるモチベーションや、生きる希望を見出すことができたのが、自分自身のカラダの探究だったのです。

 

 “深堀り” すること

理学療法士の国家資格を取得し、理学療法士として働くことになったのですが

もともと自分がなりたくて理学療法士になった訳でもなく、それを自分の職業として長くやっていこうと思っていた訳でもなく、高校を卒業する前の進路を考える時期になった時に、親からの勧めで理学療法士を目指すことにしたのです。

自分自身の明確な意志で目指したのではなく、何にも目指すものがなかったから、とりあえず親の勧めのままに目指すことにしたのです。

 

このように、この先ずっと理学療法士として働きたい訳でもなく、これ自分の職業としたい訳でもない、という想いは変わらなかったのですが、

だからといって、仕事で関わる方に対して手を抜くとか、適当にルーティンワークのように仕事をする、ということはなかったのです。

やるからには全力で、何とか良くしたい。

そういったプロ意識は、なぜか強かったのです。

 

仕事に対してのプロ意識の高さから、様々な技術や手技を学びました。

ありとあらゆる手技療法を勉強し、実践し、自分自身のカラダを通して良かったものを仕事でも取り入れて、活かしてきました。

そのことにより、関わらせて頂いた方からの満足度も高かったですし、多くの方にファンになって頂いた、ということもあります。

ただ、人から認められたい、という想いが源泉になっていたのではなく、とことん自分自身が興味関心があることを深めたい、という想いが強かったのだと思います。

 

 

幼少期の遊びは、後々自分自身の生き方であったり、行動の源泉であり、雛形となるということが言われるのですが、私の場合、幼少期によくやっていた遊びというのが、“地面を掘る”ということをやっていたそうです。


自分では覚えていなかったので、母親に聞いてみたところ、私がよくやっていたことは、地面を掘るということだったと。

それを聞いて、思い出したのですが、家の庭や、山の中や、住宅開発地で、穴を掘るということをやっていたのです。

 

特に理由はなく、ただ、深く掘っていった先に何があるのだろう、という好奇心

その好奇心が穴掘りをする行動の源泉となっていたのだと思います。


大きくなって、さすがに穴掘りはしなくなりましたが、深堀りする、という行動は

自分自身が興味関心があることに対して、深く探究する、ということに向いたのです。

 

私の場合は、物事を深く探究すること

それが、生きるモチベーションや、行動の源泉となっていたのです。

 

カラダという枠を超えて

私自身のカラダへの探究は、理学療法士として関わらせて頂く方を良くしたい、という想いがあったから、様々な技術や手技を学んだという背景があります。

それと同時に、私自身のカラダを緩めることで心身ともに快適な、心地よい状態を体験することができたからです。

 

自分自身がずっと抱えていた生きることへの苦しみ。

その苦しみは、カラダを緩めることによって、心身ともにほぐれて、何かにとらわれることなくありのままの穏やかな自分を感じることができたのです。

ただ、それは永遠に続くものではなく、あくまで一時的な変化であり、効果でした。

 

そういった背景により、私の探究はカラダという枠だけにとどまらず、ヒーリングやエネルギーワークといったスピリチュアルや精神世界にも広がったのです。

カラダだけの世界の探究に “行き詰まり” を感じたからです。

 

カラダが変われば、心も変わる。

 

そのことを実体験として感じていたからこそ、カラダという枠組みを超えて、世界を広げようと思ったのです。

ヒーリングや、エネルギーワークをやることによって、カラダという枠だけでは捉えきれなかったより大きな視点で、人間という存在を捉えられるようになりました。

カラダという枠を超えて垣根を取っ払ったことで、ヒーリングや、エネルギーワークという、異世界を融合させた捉え方ができるようになったのです。

 

脳のオーバーヒート現象の中で生きる時代だからこそ

心とカラダの探究をし続ける中で、随分と生きやすくなったと言えます。

それはなぜかというと、自分自身のカラダに心地よさを感じることができるからです。

心地よさを感じると同時に、安心感を得ることができるからです。

自分とは何か?

という物心ついたときから感じ始めていた疑問に対する明確な “答え” を得ることはできませんでしたが

自分の生まれ持った、この “カラダ” で、この世界を、世の中を生きている。

そのことだけは体感的に腑に落とすことができたのです。

 

今の世の中は、インターネットの普及により一気に情報化社会が進みました。

さらに、スマホの普及により、いつでもどこでも自分の知りたい情報を得ることができるだけではなく、自分が求めていない情報までも受け取るようになっています。

無意識的にも、日々膨大な情報を浴びながら生きている。

そのような状況で生きていることで、脳に膨大なストレスが生じてしまっているのです。

脳は、カラダの中でも最もエネルギー消費の大きなところです。

膨大な情報処理のために、脳にエネルギーが集中してしまっていることにより、カラダが取り残された状態で生きているのです。

 

いわば、脳のオーバーヒート現象です。

脳だけが熱くなって機能停止や機能不全の状態に陥っているわけです。

脳がそのような状態に陥っていると、カラダの司令塔としての役割を果たすことができません。

その結果、カラダの感覚・感性がどんどん鈍くなっていくのです。

 

私たちは、カラダという物理的な肉体をもって、この世の中で生きています。

そのカラダの感覚・感性が鈍くなってしまう、ということは

自分自身が、生きていることに対しての実感を感じにくくなってしまう、ということでもあるのです。

頭にばかりエネルギーが集中し、脳から下のカラダが置き去りにされた状態で生きている。

それは、地に足をつけて生きることができていない状態であり、フワフワとした、地面に根っこが生えていない状態だと言えます。

 

超情報化社会の中で生きている私たちは、日々膨大な情報を浴びながら生きているわけですが、その影響を少なからず受けながら生きています。

分かりやすい表現をするならば、脳があらゆる情報によってハッキングされながら生きていると言えるのです。

情報に流されながら生きているとも言えるでしょう。

 

だから、すぐに不安になり、心もカラダも緊張してしまうのです。

カラダという物理的なものに対してのリアリティよりも、情報の方にリアリティを感じながら生きている。

だから、簡単に情報に影響を受けて、精神不安の状態に陥ったり、カラダをより緊張させてしまうのです。

 

自分を取り戻すこと

私たちは日々あらゆる情報を浴びながら生きていて、その情報に影響を受けながら生きています。

簡単に様々な情報の影響を受けてしまうことで、その情報による支配を受けてしまうのです。

その結果、自分自身を見失ってしまっているわけです。

 

情報=自分である、という錯覚

 

情報の影響を受け、情報に自分という存在をハッキングされた状態に陥ってしまう。

それは、これまでに何度もお伝えしてきたことでもあるのですが、カラダの感覚・感性が閉じてしまっているからなのです。

 

カラダという物理的な器に、自分という精神が宿ります。

カラダという物理的な器をもって、私たちは生きている存在です。

 

その器を、自分自身が感じられなかったり、見失っていたら、どこにも心の拠り所はありません。

自分とは何か?

自分のやるべきことは何なのか?

何のために生きているのか?

など・・・


そういった問いは、
カラダという物理的な器を、自分自身で認識し、磨いていくことによって、腑に落ちる状態を得ることができるのです。

逆にいうと、カラダという物理的な器に、自分自身が気づき、認識できないことには、永遠にその “問い” に対する答えは見つからないとも言えるでしょう。

私たち人間は、頭で物事を考えていると思い込んでいますが、
実はそうではなく、頭で考えるよりも先にカラダで思考しているのです。

カラダの感覚・感性が閉じてしまっている限り、頭にエネルギーが一極集中した状態でこの先の人生を生き続けていくことになってしまいます。

頭でしか考えない、頭でしか感じない。 

それでは、ただ情報に良いようにコントールされ、流されながら生きる人生になってしまいます。 

 

カラダの感覚・感性を目覚めさせ、開くこと。

それができれば、頭に一極集中してしまっている、偏った状態を糺す(ただす)ことができるようになります。


偏った状態は、良い循環を生み出すことはありません。

全体が、滞りなく循環が起こっている。

そういったカラダを取り戻すことが、自分自身を取り戻すことにつながるのです。 

 

自分自身を取り戻すということは、日々絶えず浴び続けている情報による支配から抜け出し、本来備え持ったクリアで、ピュアな状態。

そういった状態を取り戻すということなのです。

カラダの感覚・感性が目覚めることで、直観力も冴えるようになります。

 

頭でばかり考える状態で生きていたら、
それは結局、過去の情報の蓄積の中から引っ張り出した情報で生きていることでしかないのです。

誰かの言っている情報のコピー人間として生きていくことになるのです。

 

 本来の自分自身を取り戻し、輝きを取り戻す

自分自身の人生物語を進めていくために重要なことは過去にとらわれないことです。

過去にとらわれないというのは、知識では理解できても、具体的な対処方法が分からないと思います。


過去の記憶は、脳にだけ記憶として刻み込まれているものではなく、カラダにも刻み込まれています。

つまり、カラダに刻み込まれた記憶を解放することも同時に必要になってくるのです。

 

以前、東京でご縁を頂いて数年ほど毎月定期的にセッションをしていたことがあります。

その時の話をさせて下さい。

 

カラダには、過去の記憶が刻まれています。

セッションでは、様々なアプローチで、凝り固まった緊張を丁寧に解きほぐしていくことで、カラダに刻み込まれた記憶を解放していきます。

そして、セッションが終了して施術ベッドから起き上がって頂くのですが、その時の変化として、最も顕著に現れるのが “目” なのです。

 

どのような変化なのか、というと

年齢は関係なく、

女性は、少女のように

男性は、少年のように

目の輝きが取り戻されるのです。


キラキラと輝いていて、純粋で、ピュアな目に変化する
のです。

その変化を目の前で何度も見させて頂いて、毎回ながら感動し、大きな喜びを感じてきました。

 

目の輝きを取り戻す、ということは
心が純粋で、クリアになったということでもあります。

それは、赤ちゃんを見れば理解できると思います。

心が純粋で濁っておらず、何らかの価値観に染まっていない状態だからこそ、まっすぐで、ピュアで、純粋な瞳をしています。

赤ちゃんに見つめられると、それだけで幸せな気持ちになりますし、癒される、という経験をしたことがあると思うのです。

純粋なものに触れると、自分自身もそれに感化されますよね。

 

私たちも、赤ちゃんのように

何らかの価値観や、ルール、枠組み、しがらみに囚われることなく、純粋で、真っ白で、ピュアな状態で生きていたときがあったわけです。

しかしながら、生きていくうちに
親の洗脳や、社会のルール、価値観などを刷り込まれていくことで何らかの価値観を作り出してしまいます。

そうやって出来上がってしまった価値観というフィルターが常にかかっていて、目の前の世界を、純粋なフィルターで見ることができなくなってしまいます。

そして、どんどん濁っていくわけです。

目の輝きを失っていくわけです。

 

赤ちゃんの目が純粋で、キラキラと輝いて見えるのは、きっと目の前の世界が輝いて見えるから、それを映し出して輝いているのです。

もし、目の前の世界が靄がかって濁っていたら、目にも、そういった状態が映し出されていると思うのです。

 

目が曇っているということは

その人自身が見ている世界が靄がかっているということです。

何らかの価値観によって作り出されたフィルターがかかっているから、靄がかっているわけです。

 

カラダに刻みこまれた過去の記憶。

それが、カラダを緊張させ、ぎゅっと縮こまらせてしまっています。

自分自身のココロもカラダも解放することができず、自分自身の内側に閉じこもってしまっています。

それを解放することで、内側に向いていた意識が外側に解放されるようになります。

 

意識が解放されることで、様々なものに囚われた状態からカラダが解放されます。

カラダが解放されることで、ココロもカラダも自由を取り戻すのです。

 

『心身一如』という言葉があるように、ココロとカラダは表裏一体で、切り離せないものです。

カラダが解放されると、ココロも解放されるのです。

また、逆も然りです。

私がセッションで体験して欲しいことは、本来あるべき純粋で、何ものにも囚われない状態です。

 

体感的に、

何かに囚われることなく

何かに縛られることもなく

何者かになろうとする必要もなく

何かに固定化されることがない状態。

それを体験して欲しいのです。

原点回帰して欲しいのです。

 

本来のあるがままの自分自身

 

それを体験し、自分自身をリセットしてみて欲しいのです。

本来の自分自身と出会って欲しいのです。

輝きを取り戻して欲しいのです。

自分自身の中にある輝きを感じて欲しいのです。

 

最後に

私自身のこれまでの人生経験を通して感じることがあります。

それは、人は誰しもが、
素晴らしい輝きを持っている、ということです。

“輝き” という言葉が抽象的で、いまいちピンとこないかもしれません。

その場合、“輝き” という言葉を “可能性” という言葉に置き換えて頂いても構いません。

 

多くの人は、その “輝き” や “可能性” を自分自身が持っていることを知らずに生きているし、

潜在的には気づいていながらも、それをどのように引き出したら良いのかが分からないで生きています。

自分という唯一無二の存在を理解できない。

だからこそ、多くの人がこれまでの私と同じように“自分探し” をしながら生きていると思うのです。

 

超情報化社会の中で、日々膨大な情報を浴びながら生きていて、その情報に影響を受けながら生きている。

そういった環境の中に身を置いて生きていることで、どんどん情報による洗脳を受けて、自分自身を見失っていくのです。

情報過多が、脳のバグや機能停止を引き起こしてしまっているのです。 

そして、心もカラダもどんどん緊張して、固まっていく。

 

頭にエネルギーが一極集中してしまっている状態から抜け出すことが、何よりも重要です。 

そのために必要なことは、鈍くなって、閉じてしまっているカラダの感覚・感性を取り戻すことなのです。

凝り固まって、緊張して閉じてしまっている心とカラダを解きほぐすことで、カラダの感覚・感性を取り戻し、目覚めさせることが可能です。  

 

私たちは頭で生きているのではなく、カラダという器をもって生きているのです。

そのことに気づくことが、自分自身を取り戻すことであり、原点回帰につながるのです。

 

あらゆる情報にハッキングされず、不必要に影響を受けず、自分という存在を生きていく。 

カラダという、自分自身の心の拠り所となる器をもって、あなたの人生を取り戻し、唯一無二の存在として生きていく。 

そうやって、世の中の価値観や常識に囚われることなく、自分自身の可能性や能力を開きながら生きていける人を増やしていきたい。 

これまでの私自身の人生経験を、ご縁を頂ける方にお伝えし、カラダの感覚・感性を目覚めさせ、取り戻すことができるキッカケとなるように情報発信をしていくことが、私自身の使命であると考えています。

 

最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。

私のこれまでの人生が、ご縁を頂いた “あなた” の希望となったら嬉しいです。

魚住 心